震災ボランティア体験(たったの3日間じゃん)

 震災ボランティアの体験をアップします。本来なら演劇活動をお見せするためのHPですが、表現者として大切な活動でしたので、簡単ながらアップします。たったの3日間ですので、一週間、二週間と行かれた方に比べてまだまだ甘いと思いますが、このHPをみて「ボランティアしよう」と思う方が増えることを祈ります。(また、ボランティアに行く予定です)

5月13日金曜日

22時に新宿を出発しました。44名のグループでした。22名の二つのグループに分けて大船渡と陸前高田に分かれて活動するということでした。

 1日目 5月14日土曜日

岩手県大船渡

 実は恥ずかしながら、東京を出発してから、殆ど一睡も出来なかったのだ。4列のフットレストも何もない本当に狭いバスにぎゅう詰めで、足がぱんぱんにむくみ、足の痛さで全く眠れなかった。しかもしょっちゅう休憩があったし。大船渡について、ボランティアセンターに集まり、そこで仕事をもらいました。何種類か仕事があって選べました。それで、気分が悪い上、頭痛もあったので、なにげに力仕事を避けました。(男性陣、本当にごめんなさい。)

 そこでした仕事は、支援物資の分配・配布です。コミュニティーセンターに被災者が必要なものを受け取りに来るのです。食料品20品目と1週間に一度生活用品(石鹸とかトイレットペーパーとか)を受け取れるのです。配布担当者が地域の方なので、顔が分かるので被災者以外の人が受け取ったり週一度の生活用品を何度も受け取ったり等と言うことはない。お互いに知り合いだからこそ、保たれる秩序に感心しました。東京だったら、20品目と決めていても、多くとったり、それをこちらが注意したら逆ギレしたりって事があるのではないかと思いました。(飲食店でのバイトの経験から呆れるほど図々しい客がいることを知っているので)

 

 配布場所で、地元のボランティアの方々から話を聞いて学んだこと。

1 公平に分けることの難しさと大切さ

震災後(初期)、ディズニーの巨大ぬいぐるみが5体子供のためにと送られてきたが公平に分配できない。結局保育園にあげた。いい判断だと思った。この場合はうまく解決したが、なかなかうまくいかないこともある。例えば食料などが少量で場合、どう分配するか。私はボランティアセンターの方々がもらっていいと思う。ある歌手の体験だが・・・その人が支援物資の配送や分配をボランティアでしていた。銘菓(生もの、2日くらいでダメになる)を1箱ボランティアセンターに送ってこられて、ボランティアセンターの人が「ありがとう」といって、配布せず自分たちで食べてしまった。で、その歌手は怒って、それをツイッターやブログで知らせた。そうしたら、賛否両論で。私は、ボランティアセンターの方の行動は当然だと思う。だが、「歌手が怒るのは正論だ。被災者のためであってボランティアセンターの人のではない。」「店でも余った食品は従業員が食べたりしない。」「なんとしても被災者に送るべき」などとあったのだ。ボランティアセンターの方も大抵、被災の大小はあれ被害を被っているし、たとえ被害が無くとも彼らも生活や家族があるのだ。無給でいつまでも活動は出来ない。日本でボランティアが定着しないのは、「仕事」としてボランティアを支える人を認めないことにあると思う。

 物資を送る場合は、日持ちするものを送る。個人で物資を送るのではなく、大量に送れるように団体(か企業)で送る。特に初期の頃は、被災者に欲しいものをとって下さいとは言いにくい(争いになる可能性がある)ので、大量にした方がいい。

2 必要なモノはどんどん変化する

最初にガスが復旧し(プロパンガスが主流なので)、次に電気、その次に水道が復旧したそうだ。今も自宅が全壊して避難所で生活している方もいらっしゃるが、半壊で自宅で生活している方もいる。初めの頃、ガスがないので「七輪」が必要だと言っていたら、大量に七輪が届いた頃は、ガスが復旧していて余ってしまった。「必要だ」と言われたらほんのすぐに、1週間以内に到着するぐらいに送らないと意味がないと思う。沢山集めるのは大変だと思うが、それくらい急ぐしかない。それくらいすぐ対応するには、「必要物資購入」のために「寄付金」を集めるという事をもっとしていいと思う。何を購入したはHPでチェックできるようにすればいい。初めから何を買うか決めて集めなくていいから、現地に合わせられると思う。

 また、今の時期でも冬物の衣料を送る人がいるが、ゴミになるだけだ。もう冬物はいらないし、今度の冬にとっておけと思うのかも知れないが、避難所生活する人はとっておく場所もないし、自宅暮らしでも家が半壊したりしてとっておく場所もない。

3 モノではなくカネ

身も蓋もない言い方だが、切実な問題だと思う。今回色々な企業が支援物資を送っているが、ハッキリ言ってアウトレットのモノが多く、逆にゴミを増やしている。たとえば、シューズメーカーが靴を大量に送ったが、結局余り物を送っているだ。27cmの女性の靴なんて履ける人を探す方が大変だ。下着もそう。サイズもあるし、好みもある。皮膚が弱い人は(私もそうなので良く分かる)、化学繊維のモノは身につけられない。中古品に至っては、現在どんどん捨てられている。送料の無駄である。フリーマーケットでも地元で開いて、その利益を被災地に送って欲しい。

 こんな話をすると、贅沢だという人がいる。阪神大震災の時も、戦争経験者が、「被災者が古着はいらないと言っているけど、なんて贅沢な。私たちが空襲を受けたときなんか誰も何もしてくれなかった。罰当たりな」などと言っていた。こんな言葉に流されてはいけない。

 第一に、これは戦争ではない。国民全体が被害を受けたのではなく、一地域が運悪く甚大な被害を受けたのである。もしかすると、自分が受けてもおかしくないのだ。お互い様で助け合うのである。だから、自分がいらないものは被災者もいらないのである。対等に考えるべきだ。第二次世界大戦の時は国民全体が被害を受け、助け合うことが難しかったし、生活レベルが違いすぎる。

 第二に、古着は汚いから嫌できれいなのが欲しいと主張しているのではない。何が必要かは個人個人で大きく違うのだ。服一つとっても、サイズも体質もある(皮膚炎になったら意味がない)し、生活が違えば必要な服が替わる。仕事によって必要な服が違うのだ。個人個人必要性が細かく違うので、漠然と大量に中古を送られては困る。被災地はゴミ捨て場ではない。知人に何が必要か聞いて、個人的な関係で中古を譲ることまで文句を言っているのではない。新品が中古よりましなのは単にもし不必要な場合、さらに他人に譲りやすい(交換価値の高さ)からである。

 個人個人仕事が違い、生活が大きく違う現代では、大量に物資を送るのは役に立たない。震災直後は別である。震災直後は、みな瓦礫撤去のために長靴とジャージ(作業着)が必要で、急いでいたので中古でも何でも必要だったと思う。でも、2ヶ月も経っているのだ。裸は気の毒だから衣類を送るという次元ではない。個人が自分の能力を使って生活を再建しないと行けない。そうすると千差万別になる。企業はモノを送りたがるが、どうしても送りたいなら「カタログギフト」のごとく「震災支援カタログ」でもつくって、被災者に選んでもらうべきだ。

 支援物資が現地の産業を圧迫する。これは、最貧国と呼ばれる国への援助でも言われることだが、支援物資をもらう故に、現地で購買することが無くなり、産業が復興しなくなる。細かく説明すると、現在は食品を含め様々なものを被災者に配布している。住居が被災しなくても、船が流されたりして、全く仕事が無く収入がない人も多い。その人達にも収入がないから支援物資を分けようということになる。そうするとどうなるか。2ヶ月経って、被災地でもやっといくつかの店が開けるようになった。そこでの品が殆ど売れなくなるのだ。せっかく商売を開始しても、収入が無く、失業状態と同じだ。結局彼らにも支援物資を渡さなければならなくなり、いつまで経っても支援物資を受け取らないといけなくなる。これがお金だとどうなるか。お金を被災者に渡したとする。彼らはまず、必要なモノを購入するので、被災地の商店は活動でき失業しなくなる。そして、お金は仕事のための資金になる。自分の能力を考えてどういう経済活動(金稼ぎ)をするか計画を立て実行できる。

 なるたけ企業も物資ではなく金銭を寄付して欲しい。・・・金の流れは経済の血液、銀行は経済の大動脈ということを改めて感じました。

4 流通と配布の困難

支援物資の仕分けと詰め込みをした人から聞いたのだが、広い体育館いっぱいに天井まで支援物資がいっぱいで、それをずっと仕分けていたそうだ。なかなか精神的にハードな仕事だったようだ。とにかくタグの付いていないものは中古品と見なして、廃棄。それ以外をサイズを明記して詰め直ししていたらしいが、とにかくいつになったら被災者に届くのだろうと思えるような量だったらしい。各地でいろいろな試みがなされているようだが、愛知県のボランティアグループがある被災地と提携して、常に何がどれだけ必要か連絡し合って必要なものを必要な分その場所に送っているらしい。出来るだけ細かい単位でそのくらいしないと、無駄が多すぎる。

物資を細かく送っていて成功しているところもあるようだが、そのような形で金銭の援助は出来ないものだろうか。人によって、被害の度合いが違うのは分かるが、まず基本的支援として一律で構わないから最低限の金銭を渡せないものだろうか。大金だと、どの人も神経過敏になる。だから、親戚の家などに避難した人も嫉妬したり抗議したりしない程度の少額から始めたらどうだろうか。毎週物資の配布があるのと同じように、少額で毎週一人一人に配布するのはどうだろうか。とにかくはやく「カネ」が回る世界にしたい。生活を再建し自立していくために。

 

肉体的には全くつらくないボランティアでしたが、いろいろなことを学べた経験でした。また、津波ばかり意識がいっていましたが、地震だけでもかなりに被害があり、配布場所の天井がはげていたりしていました。また、地震で家屋にかなり被害を受けていても、津波被害がないと被害を地域の役場が把握し切れていないところもあり、地震被害を把握するのも今後の課題だとおっしゃっていました。

また、泥掻きのボランティアをされた方は本当に大変そうでした。戻られたのを見て、10歳老けたのではないかと思われるくらい、皆さん疲れて呆然とされていました。まず、泥は重い。それをスコップで掻き出し、中にいろいろ入っているから仕分け、ゴミ集積所に持って行く。しかも、臭い。津波とともに魚も沢山来てそれが腐っている。ウジがわいている。臭い、臭い、臭い。防塵マスク(活性炭入り)が必要なのがよく分かったそうです。

さらに、コンクリート工場が津波で大打撃を受け、そこから石油が漏れて周囲の林や家屋に黒い線を残していた。つまり、石油の海に浸かったところは真っ黒になっていたのである。

家屋は個人の所有物で勝手に写真を撮ってはいけないと言われた上、車で通ったところは写真のために車を止めてくれとも言えず、大船渡では全くといっていいほど写真を撮っていません。

大船渡の陸地に乗り上げたままの船

 

二日目 5月15日日曜日

三日目 5月16日月曜日 

岩手県陸前高田市 バスの中から撮ったので手前の方がぶれています。

大船渡の人から、陸前高田は空襲を受けたみたいに何もないよ、と言われていた。TVなどでも知っていたが、本当にその風景を目の前にして、日本にいるとは思えず、涙が出そうだった。絨毯爆撃を受けたようだった。風が吹き、砂埃がひどかったが、広大すぎて「臭い」とは感じなかった。広大すぎて完全に距離感が狂った。「向こうに野球場のライトが見えるから野球場近く・・・」と思ったら、10キロ以上離れていたりした。地平線彼方まで瓦礫というのは初めての経験なのだ。いろいろな国に行ったけど、本当に初めての経験だった。写真や映像で見た原爆投下後のヒロシマにいるようだった。ただし、人がいない、生き物が全くいないが。ゴーストタウンの被爆地・・・

山積みになった瓦礫。これを通常の産廃物として処理するらしい。これを燃えるもの、燃えないもの等、仕分けるのは人でないと出来ない。

ぼろぼろになった車が集積されている。車、となれば破壊されたものばかり見たため、ボランティアセンターで通常の車が沢山停まっているのを見て新鮮に感じたほどである。

ボランティアセンターに行き、私たちのグループは全員が田圃の瓦礫撤去を頼まれました。瓦礫なら重機が撤去すれば、と思うかも知れませんが、重機が入ると、釘だのガラスだのが地面の奥に入り、田圃として再生できなくなるのです。それで、重機が入る前に掘り返し、地面に埋まっている瓦礫を掘り出すことになりました。

以下は、私たちが活動したところ。遠くに海が見えますが、初めは瓦礫の山で海が見えなかったそうです。

でるわでるわ。瓦が一番多いですが、建物の家の一部や陶磁器類、船のエンジンやラジエーターまで出てきました。写真にもあるように、表面に沢山瓦礫があります。ですが、地面の中にも沢山埋まっているのです。

震災から2ヶ月たって、貴重品はかなり撤去されたものの、財布や通帳や写真などがかなり見つかりました。ちぎれた1000円札も。みな、貴重品としてボランティアセンターに持って行き、持ち主が探せるようにします。実は、13日に乳児のご遺体が見つかったそうです。初めは人形かなと思われたみたいですが。自衛隊は基本的に目視で探すのであって、地面をすべて掘り起こすわけにはいかない。陸前高田市でまだ700人行方不明です。大多数は引き潮で海に流されたと言われていますが。

雨が降ったりしてまだ泥が多く、ゴーグル・マスクをしていて良かった。そうでないと、何かなと思って顔を近づけたくても泥が飛び散るのが怖くて出来ない。砂埃も多いし。ゴム手袋も耐油性の厚手のをしていて良かった。硝子や釘、割れた陶器などですぐに破れてしまう。長靴も安全長靴でよかった。全体的に厚手で出来ている。女性ものが無くて22,5の足のサイズの私は25を買って、4枚中敷きを入れていた。鉄の中敷きを1枚入れることをお勧めします。本当は購入したかったが、売り切れていて仕方なかったのだ。ボランティアセンターで運良く借りられ助かりました。おかげでがれきの中に大胆に足を入れられました。横から釘などが出ていて、刺さって怪我をする人も多いので、気をつけてください。大胆に足を入れたといえど、それは気をつけました。それでも、2日間活動後、安全長靴の横が釘がこすったのか少しえぐれてました。

屋根が流されてきたもの。隣の桜の木には牡蠣の網がぶら下がっています。

私たちは、15日にまず田圃の瓦礫の撤去をして、その持ち主の方に大変喜んで頂き、16日も同じ方の田圃の瓦礫を撤去しました。1日で1区画です。以下は22人の男女で朝10時から15時までやって、この通りの変化です。右が前日(15日に撮影。まだ撤去していないところ)、左が瓦礫撤去後。(撮る向きがずれているので分かりにくいかも。)これでも、この田んぼの持ち主の方は本当に喜んでくださったのです。でも、まだまだ、地面にたくさん埋まっているはずです。かなりがんばってほじくりましたが。

 ボランティアが殺到して仕事がない等ということがニュースになったらしいですが、そんなことに騙されないでください。確かに場所によっては殺到したかもしれません。でもそれは予定外にいっぺんに人が来て、仕事の割り振りを仕切れなかったのだと思います。写真ではわかりにくいかもしれませんが、あのだだっ広いところをほじくって土地を再生させるんです。人が足りなさすぎます。仕事の割り振りには、指示をする人も、仕事場へ連れて行く人も車も必要です。ボランティアを動かす人がいるのです。また、事前に断りもなくやってくると、仕事の計画が立てられないのです。出来るだけ集団出来て欲しいというのがボランティアセンターの本音だと思います。もちろん、宿泊所も移動手段も自分で確保して。

 15日に私たちが活動していたとき、50代かそこらと思われる女性が訴えてきたそうです。「皆さんは私たちのところには来てくださらないのですか?うちの家が壊れて、田圃も畑も瓦礫だらけで、自分で撤去しているけどもうどうにもならない。どうやったら皆さんは来てくださるのですか?」それを聞いた私たちのリーダーがボランティアセンターに連絡をして、その女性の住所を聞き、後日視察に行って決めると言うところまで話を進めました。震災から2ヶ月も経っているのに、ここまで都市が破壊されると地域のコミュニティーも壊され、連絡が行き届かない。誰に何を頼んだらいいのか分からない。只ひたすら自分で何とかしようとしている人がいるのです。

 また、この田圃の近くで畑作をしている夫婦がいらっしゃいました。多分、近くの全壊した家の持ち主なのでしょう。瓦礫とテントで小屋を建ててそこで煮炊きもしていて、住んでいらっしゃるのか農作業の時の仮小屋なのかは分かりません。地面に穴を掘って囲いを付けたトイレを貸してくださいました。トイレの奥の竹林にある全壊した家は、屋根はあるが屋根から下がグシャッとつぶれ、屋根から屋根瓦がずれ落ちており、その様に息をのみました。別の家では、鉄筋だけどそれでも壁が崩れ、窓やドアが外れ、家の中のものがはみ出ている。「○○の靴下」とか書いてある衣類ボックスなどが転がっていたりするのが、生活のにおいがするだけいっそう胸に迫りました。(個人宅なので写真は撮っていません)

 さらに、写真からも分かるように、この辺りはすぐ高台があります。ほんの1メートル位の差で大きく変わってしまいます。ほとんど被害がない(地震の被害はあるかもしれないが)家と、ぼろぼろに壊れた家。その落差が辛かったです。もちろん、そこで暮らしている方の辛さは想像を超えるでしょう。毎日毎日ずうっとその辛さを感じるのです。ほんの目の前に崩壊がある辛さ。地元の人だけでの再建は、物理的だけでなく精神的にも無理です。他の地域から人が集まって、その辛さを少しでも分かち合う必要があると思いました。実際、「地元の人だけでずっと活動していると閉塞感と精神疲労の蓄積でたまらなくなる。外部から人が来てくれるだけでそれが和らぐ」と言われました。

本当に、本当に、人が足りないのです!

 農地にしないで他のものにすればいいと思うかもしれません。私もそれは考えました。掘り出すのが大変すぎて。ですが、全て埋め立て地にするのは物理的に無理でしょう。広すぎます。全て工場地帯というのも無理でしょう。家を建てるにしろ庭はあるし、学校関係だと校庭を作らないといけない。全てビルで埋め尽くすのは難しい。人口が足りないだけでなく、なんと言っても津波にあった場所なのですよ。そこに、人を密集させて住まわせることは出来ません。それに農地は災害に強いです。農作物の被害は大きいですが、瓦礫は出さないし、有毒物質も出さない。ですからある程度の農地は必要です。掘れば掘るほど、瓦礫だけでなく大きな石(中には子供の頭くらいのものもある)がごろごろ出てきて、本当に農地になるのかと思いました。塩害もあるし。ですが、瓦礫を撤去して新しく土を入れて農地にしたいという農家の方の希望は叶えたい。農地になって欲しいです。

 たったの3日間でしたが、また岩手に行きます。少しずつ変化していく様を見ていきたいです。この風景が変わるのを心待ちにします。

田圃の近くの柿の木。がんばれ、柿の木。柿の実が出来るのを待ってるよ

最後に

現地の状況は日に日に変わります。今回私はボランティアは自己完結と考えて、なるたけ自分で用意しました。ですが、地元の復興を考えると地元にお金を落とすことが大切です。沿岸部の宿泊所は営業していなかったり、被災者や建設業者で一杯です。ですが、内陸部(花巻など)は、宿泊客がいなくて困っているのです。今後はそういうところに是非泊まってください。また、そういうところでは普通に食料や水が手に入ります。是非買ってください。今後は自宅から持ってくる必要はありません。そういったツアーに参加するのもいいし、小集団だと移動手段の乗り物も共有できます。肉体労働で疲れた後、温泉につかるのは気持ちいいですよ。もちろんこういったことは、各自のお財布との相談ですからご自由になさってください。被災した県にお金を落とすのも大切だと言いたいだけです。

私は今回(まあ大体いつもですが)、自分が何かを出来るなんて思っていませんでした。

特に自分が役に立つとか、何かをしてあげるなんて思っていません。

それは今でも変わりません。

それこそ本当に現地に役に立つには、金儲けにならない演劇なんか止めて前の仕事に戻って(戻れたらですが())、

一生懸命稼いでそのお金を送った方が、現地の役に立つでしょう。

経済的に考えれば、そうなります。

私はただ、この震災を受けた地に立ってみたい、この震災をからだで感じてからだに通したいと思ってボランティアに参加しました。

体験することが表現者として大切なことだと感じたからです。

ですから、ボランティアさせて頂いた、という気持ちで一杯です。

たった三日の体験で申し訳ないと思っています。

体験させてくださって、本当にありがとうございました。たくさん学ばせて頂きました。

心から感謝します。

 

           2011年 5月 堀益和枝

 

 

 

 

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